スポンサーサイト このエントリーをはてなブックマークに追加

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- ] スポンサー広告 |

井上馨の遺言書 このエントリーをはてなブックマークに追加

井上馨の遺言書01


井上馨の遺言書05

井上馨(1835~1915)
1835年長州藩に生まれる。藩校明倫館に学んだ後、江戸に出て尊皇攘夷を掲げる高杉晋作や伊藤博文と行動を共にする。
やがて攘夷には海軍の育成が急務との思いを抱き1863年にイギリスに渡る。
しかし海を渡りロンドンの発展を目の当たりにすると開国派に転じた。
ほどなく長州藩が下関で外国商船を砲撃したとの知らせを聞きすぐさま帰国。
開国論を説いてまわったが藩内の保守派から目の仇にされ、暴漢に襲われ重唱を負う。
なます切りにされかけつけた兄に介錯を頼むほどであったが奇跡的に回復。
藩論を開国に統一し薩長同盟締結に尽力する。
明治維新の後、倒幕に貢献した薩長を中心とする藩閥政治が行われると伊藤博文、山県有朋と並ぶ長州閥の巨頭として要職を歴任。
かつて高杉率いる騎兵隊の資金調達を受け持ち財政に詳しくなった経験を生かし、鉄道事業や紡績の分野で殖産興業に努めた。
また明治初期の貿易が外国商館に牛耳られていたことに憤慨し益田孝と共に商社を設立し対抗した。
これが後に発展し日本最大の商社三井物産となる。
ほとんどの財閥には井上の息がかかっており、西郷隆盛からは「三井の大番頭」と揶揄され、たびたび汚職の嫌疑をかけられるが、財界の黒幕として近代日本の成長を支え続けた。
1879年には外務卿となり内閣制度が発足した後、初代外務大臣に就任する。
その際外国の賓客をもてなす鹿鳴館を建設、これは幕末に結んだ不平等条約を改正するための欧化政策の一環である。
しかしその真意は庶民には伝わらず夜な夜な開かれる舞踏会に非難が集中。
また外国人を裁判官に登用することで治外法権撤廃を目指したが政府の反対を受け失意のまま辞任。
しかしその後も農相務大臣や大蔵大臣を務め、第4次伊藤内閣退陣後は内閣総理大臣に内定しが癒着が問題となり辞退している。
1915年(大正4年)静岡県興津の別邸で死去。享年81歳。

お宝
井上馨の遺言状
明治22年農相務大臣を辞任する前年に夫人にあてて書いたもの。

井上馨の遺言書06

井上馨の遺言書04

井上馨の遺言書02

井上馨の遺言書03

井上馨の遺言書07

井上馨の遺言書08

冒頭には
「人の生死は予期できないため揉める事がないよう後世の子孫を戒めるとともに財産分与の方法を親友である3人の証人を立て認めておく」

井上馨の遺言書09

「長男勝之助夫婦を相続人とし妻武子には郵船会社の株221株とその利息その他縁者9名には2万5千円の現金(現在の価値で6億円)と別邸などの不動産を分与する」

井上馨の遺言書10

井上馨の遺言書13

「子供のなかった勝之助には温和で品行正しく教養のあるものと説き貯金を奨励」

井上馨の遺言書11

最後に家訓を記している。
「我が子孫たるものは天皇家から恩恵を受けている家であるため存亡を共にするのはもちろんのこと天皇家の権力を弱めようとしたりあるいはそれを企てる政党に加入することを禁ず」
というようなことが書いてある。

井上馨の遺言書14

証人は全て長州藩出身者で政治家野村靖、井上の部下で三井物産初代副社長木村正幹、松下村塾出身の子爵品川弥次郎が署名している。

井上馨の遺言書12

気になる鑑定額は・・・

井上馨の遺言書15

鑑定額200万円。
井上馨は毎年遺言状を更新していたという。しかし処分せずなぜか現存してしまっているのか不思議なことだという話だ。
関連記事

コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://otakarajoho.blog10.fc2.com/tb.php/64-32b50288











ブログパーツ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。