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浅井長政の書状01


浅井長政の書状04

浅井長政(1545~1573)
妻は信長の妹お市、長女は秀吉の側室淀殿。
浅井長政は悲運の死を遂げた戦国大名である。
1545年北近江を治める戦国大名浅井久政の子として生まれる。
15歳で元服すると気弱な采配で隣国から攻められた父に隠居を迫り、16歳で家督を相続。
するとその混乱に乗じ南近江を治める六角義賢が突如侵攻してきたがその半数の軍勢で蹴散らし初陣を飾った。
この勇猛果敢な若者に目をつけたのが尾張の織田信長であった。
その頃上洛を目論む信長は斉藤竜興が治める美濃を攻めあぐねていた。
そこで信長は長政と同盟を結ぶべく当代一の美女と謳われた妹お市を差し出し、さらに上洛のあかつきには天下の取り決めはふたりでするという条件まで提示した。
これにより美濃を攻め落とした信長はさらに西へと進み長政はその先鋒隊として宿敵六角氏を撃破した。
近江全域を手中に治め、信長もまた念願の上洛を果たした。
その際足利義昭は信長により将軍に祭り上げられたが、実権がないことを悟ると旧知の戦国大名朝倉義景に助けを求めた。
すぐさま信長は越前征伐に動いたが、朝倉家と浅井家は3代に渡る盟友であり、信長と同盟を結ぶ際も無断で朝倉家を攻めないという取り決めを交わしていた。
これを反故にされた長政は悩みぬいた末、義景を援護した。
すると激怒した信長は徳川家康とともに長政の拠点小谷城を攻めた。
これが世にいう姉川の戦いである。
織田・徳川軍3万に対し浅井・朝倉軍わずか1.8万、獅子奮迅するも朝倉軍が士気に欠けたためあえなく敗北。
その後も延暦寺や武田信玄と組み、信長を苦しめるも1573年小谷城を攻められると妻お市と3人の娘を信長の元に送り自刃した。29歳の若さであった。
一方生き残った妻と3姉妹は数奇な運命を辿った。
信長が本能寺で無念の死を遂げると、お市は織田家筆頭家老柴田勝家に嫁いだが、勝家が賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れると自害した。
3姉妹は秀吉に預けられた。そして長女茶々は秀吉の側室となり秀頼を出産、淀殿と呼ばれ権勢をふるった。
次女お初は戦国大名京極高次の正室になった。
そして三女お江は2代将軍徳川秀忠の正室になり家光を産んでいる。
その結果将軍の外祖父となった長政は死後から59年を経て従二位権中納言を贈られ名誉を挽回した。

お宝
浅井長政が多賀大社にあてた書状
多賀大社は滋賀県多賀町にあり浅井家とは極めて縁が深い。

浅井長政の書状05

浅井長政の書状02

浅井長政の書状03

浅井長政の書状06

長政の花押

浅井長政の書状07

浅井長政の書状08

「酒の肴を二品頂戴しありがとうございます。遠方にもかかわらずご丁寧なことでうれしく存じます。なおこの礼状をお届けする浅井縫殿介が口頭でご挨拶いたします。」
という内容のことが書かれている。

気になる鑑定額は・・・

浅井長政の書状09

鑑定額300万円。
29歳の若さで亡くなったため数が少ない、そのため希少価値が高い。
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